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山辺田窯跡について ③九谷1号窯への技術移転 [美術館・史跡を訪ねる]


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≪山辺田窯4号窯跡≫

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≪九谷1号窯跡≫

 山辺田窯遺跡と九谷古窯遺跡のそれぞれに関係する多くの識者による調査研究の成果をもとに、山辺田窯から九谷1号窯へ技術移転があったかどうかを考えてみました。
 九谷1号窯が1655年(明暦元年)に開窯するまでの数十年の間に、肥前では窯業に変遷が何度か起こりましたが、山辺田窯で焼かれた古九谷様式の初期色絵磁器から新様式の柿右衛門様式や色鍋島へ移ろうとしたとき、山辺田窯の技術が九谷1号窯に移転され、そこで活かされ、古九谷として完成したと考えます。

肥前での古九谷様式の盛衰
 山辺田窯を含む有田の諸窯は、1610年代の中頃、朝鮮半島の技術をもとに日本初の磁器生産に成功し、陶器と同じ登り窯で初期伊万里を併焼し始めました。磁器生産が盛んになるにつれ、鍋島藩は有田の窯業に藩政として強く関与し、1637年に有田西部(後の外山 山辺田窯も含む)と伊万里地域の16か所の窯のうち11か所を廃業させ、東部(後の内山)中心の13か所に整理統合して藩の管理下に置きました。このとき、この地域から日本人陶工826人が働き場を失いましたが、山辺田窯は、品質の良い磁器を生産していたので整理統合から免れました。
こうした状況のもと、山辺田窯は、景徳鎮と比肩できるほど薄くて白い素地を焼けるレベルにあったことから、1640年代から50年代にかけ中国の絵付技術を取り入れて、古九谷様式の大皿類を中心に生産し、有田の中軸的な窯へ発展しました。
 ところが、中国明の動乱(1644年滅亡)により欧州向けの陶磁器輸出品が激減したため、その代替となる色絵磁器が有田に求められました。合わせて、景徳鎮や漳州窯など主要な陶磁器に携わっていた技術者や関連の商人が長崎に逃れてきて、有田窯業に、そして山辺田窯に影響を与えました。
 まず、有田に与えた影響は景徳鎮に似た分業制が進んだことでした。鍋島藩は内山全体を、絵付を専門に担う何軒かの赤絵屋を中心に、素地の製造から絵付けまでを細かく分業化し、一つの窯元に近い組織(有田皿山と呼ばれた)に変えました。こうして、欧州向けの柿右衛門様式、将軍家などへの献上品の色鍋島などが生産の主体に移っていきました。
 一方で、山辺田窯も大きな影響を受けました。内山では技術者不足が生じそれを穴埋めするため、外山の山辺田窯などから技術者(主に絵付け職人)が引き抜かれました。折しも需要の落ちていた古九谷様式が主体であった山辺田窯は、自然と、衰退していき、その技術も廃れかけました。(窯自体は1650年代後半に廃業)

九谷1号窯の開窯
 加賀藩は、中国、オランダ、肥前から多額の陶磁器を購入し、また加賀藩主 前田利常自身が美術工芸品に強い関心を持っていたこともあり、自国(藩)で陶磁器の生産を考えたのも当然でした。1637年3月に有田で窯の整理統合があったその6月、前田利常は、藩士を長崎・平戸に派遣し、“古き唐織の切”と“茶の具”などを買い付けるように命じましたが、それをきっかけに、長崎、平戸に加賀藩出張所を置き、肥前の陶磁器、輸入品の買い付けをさせました。ただ、その出張所は美術工芸品の買い付けだけでなく、情報収集も行ったと考えられます。収集した情報には、1640年代になって中国陶磁器の輸入が停滞していたこと、肥前有田で中国人から入手した色絵磁器の技術をもとに色絵磁器が生産され始めたことなどが含まれていたと想像します。
 前田利常は加賀藩内で陶磁器を生産する準備に取りかかりました。手始めに、1639年、その三男 前田利治を初代藩主とする大聖寺藩を加賀藩から分封し、自身は小松に隠居して大聖寺藩による陶磁器生産の計画を采配しました。利治も後藤才次郎定次(元加賀藩士)に藩内での金鉱の探索と合わせて、陶石も探すように命じ、ついに、1644年、九谷に陶石を発見するに至りました。また、1647年、長崎で有田最初の赤絵磁器が売りに出されるやいなや、加賀藩御買物師がそれを買い付けたといわれます。これは色絵磁器の研究のためであったといわれます。
 こうして、磁器生産開始の条件が整うにつれ、次に磁器の生産技術が求められました。その調達先として考えたのが山辺田窯であったと想像されます。ところが、鍋島藩は、生産技術が他国(藩)に漏洩するのを防ぐため、有田地区に代官所や番所を配置し、製品の品質管理、住民の出入り、陶石の持ち出しなどを厳しく取り締まっていたので、利常は鍋島藩藩主 鍋鳥勝茂に山辺田窯の技術者の派遣を懇請したと考えられます。
 利常は、柿右衛門様式、色鍋島などの色絵磁器の生産技術に関心がなく、需要の落ち始めていた古九谷様式の技術なら譲ってくれるものと算段したと思われます。むしろ、加賀藩と大聖寺藩は、山辺田窯が陶器の焼成から磁器の専焼窯に変わり、良質な素地の生産技術を積んで、やがて古九谷様式を開発した事例を見て、危険の少ない方法を選んだと思われます。1600年代前半の窯で使われた規模の技術を九谷に移入し、段階的に進む方が安全であったといえます。ある窯元の話によると「ある土地で初めて磁器が焼きだされる場合、手始めに陶器を焼いて準備期間を持つのが普通のやり方である。」といわれるように、大聖寺藩でもこうした進め方をとったものと考えられます。
 当然に、鍋島藩にとって、需要の落ちていた古九谷様式とはいえ、日本で唯一の色絵磁器の一部でしたので、技術を国(藩)外に出すことに苦慮したと想像されます。しかし、これを克服させたのが大聖寺藩と鍋島藩とが姻戚関係(*)であったと指摘されています。この姻戚関係は、後に、肥前産の素地を古九谷に使う際にもこの関係を利用したと考えられます。
 山辺田窯の技術を移入し、ついに九谷古窯1号が開窯する運びとなりました。藩主 前田利治は後藤才次郎定次に命じて焼き物を焼かせ、1655年、最初の磁器が神社に奉納されました。その後(1661年)、才次郎定次(焼物師の才次郎忠清という説も)が肥前に派遣され、当時最新の技術を修得し、あるいは長崎で顔料を買い付けるなどして、技術と品質の向上を図り、ついに「古九谷」が完成しました。
*両藩の親密な関係
1650年、佐賀藩藩主 鍋島勝茂が前田利常に染付の獅子香炉を、そして、翌1651年“鶏の硯屏”、染付の水指などの初期伊万里製品を贈りました。
1654年、鍋鳥勝茂の孫娘(米沢藩上杉定勝の子)にあたる徳姫、亀姫の姉妹が、大聖寺藩藩主 前田利治、そして大聖寺藩二代藩主 前田利明に輿入れしました。

どのような山辺田窯の技術が移転されたのか
 上述したように、九谷1号窯を開くために山辺田窯を選んだのは山辺田窯が古九谷様式を生産した有田唯一の窯であったからで、加賀藩から分藩された富山藩で越中瀬戸を焼いていたものの、手っ取り早く山辺田窯から技術を移転することを図りました。

 登り窯の構造などから山辺田窯と九谷1号窯との類似点をみると、次のことがわかります。
 九谷1号窯も連房式階段状の登り窯でしたが、その長さは現長33.4m、復元すると全長34m超となり、12の焼成室の平均規模は幅約2.6m、奥行約2.3m(5.98㎡)の横長で、上に登っていくほど大きくなる構造であったことが推測されています。この規模は17世紀前半、陶器を併焼した山辺田窯の規模に近く、九谷1号窯で茶道具などの陶器を焼くなど準備段階を経て、技術的な実績を積み重ねながら、着実に進められたようです。
 有田で1640年後半から50年代にかけ技術革期を迎えると、新しい登り窯の規模は、長さが40m~50m、焼成室数が15室前後、焼成室の幅・奥行が3m台となり、九谷1号窯に比べ、約1.5倍の規模となっています。この規模の登り窯をいきなり築くのは危険であったと思われます。
 また、50年代に築かれた登り窯の焼成室に見られる奥壁のレンガ(トンバイ)が九谷1号窯では使われていないことからも、1630年代の登り窯の技術が伝播されたと考えられます。
 合わせて、窯道具について付け加えれば、九谷1号窯からは肥前での技術革新に伴い考え出された新しい道具類が確認されず、磁器生産当初(陶器と併焼していた頃)に用いられた、ロクロ成形サヤ、サヤ蓋、Ⅰ字形トチン、手捏ねハマの組み合わせが見つかっていて、1630年代前後の肥前窯のものと大きな差異がないことがわかっています。

 次に、絵付けの技術についての移転を考えてみます。
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≪山辺田遺跡出土の色絵陶磁片≫

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≪九谷A遺跡出土の色絵陶磁片≫

 山辺田遺跡の出土遺物に関する最近の分析では、当初開発された古九谷様式の色絵磁器については染付の下絵を伴うものが主体に焼かれたこと、他には白磁を素地とし、主に赤絵具を使った色絵がやや遅れて二次的に焼かれたこと、しかもこの白磁の素地が山辺田窯以外に出土していないことなど、山辺田窯の素地の特異性がわかりました。
 一方、九谷A遺跡で出土した色絵の陶磁片を見ると、染付の下絵を伴うものがなく、一部山辺田窯で見つかった白磁に赤絵具を使用したものが出土しています。おそらく、この出土品は山辺田窯に似ており、この山辺田窯の色絵技術の一部分をもとに技術を磨いて白磁を素地とした「古九谷」の色絵技術が完成したと考えられます。山辺田窯ではすでに絵付け職人が柿右衛門様式の技術者に引き抜かれていたことから、派遣された陶工にいた染付の仕事をする者が色見本程度の作業をおこなって焼かれたことが考えられます。こうして、色絵技術の初歩的なものが九谷1号窯に伝播されたと想像されます。

 以上のように、有田町教育委員会によって山辺田窯やその陶磁片などに関する長年の調査分析によって多くのことがわかってきたのです。おそらく、1640年から50年代にかけ肥前有田の窯業が柿右衛門様式や色鍋島に大きく発展していく状況をとらえ、加賀藩と大聖寺藩は、色絵磁器を焼成するため、鍋島藩に懇請して、古九谷様式の色絵磁器を生み出した山辺田窯から陶工を派遣してもらったと考えます。もしそうでなかったならば、有田から遠い大聖寺藩で最初の磁器を焼くことは不可能なことであり、山辺田窯の技術移転によって、九谷1号窯で色絵磁器が焼かれたと考えます。
[T.K]

山辺田窯跡について ②出土した色絵磁器片 [美術館・史跡を訪ねる]

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≪山辺田遺跡の出土遺物≫
(資料『山辺田遺跡』Fig.4-39実測図より)

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≪古九谷 色絵渡橋人物文大皿≫
(出光美術館図録『古九谷』より)

 山辺田窯の大皿の磁器だけに見られるという特徴的な裏面の圏線をもって、同じような圏線をもつ一部の古九谷と何らかの関連があったとする推測がなされています。そこで、この窯がこうした大皿を生産した経緯を資料『山辺田遺跡』(有田町教育委員会発刊)から探ってみました。

出土遺物の概要
 山辺田遺跡は陶磁器の窯跡(全部で9基ある)と工房跡からなり、出土遺物を見ると、開窯した1600年代の陶器から閉窯期に近い1650年代の色絵磁器まで出土していることから、有田での初期陶磁器の変遷もうかがえる遺跡です。併せて、上絵付けが行われたことを示す赤絵窯(加賀では錦窯という)の遺構もわかっています。
1600年代~10年代の出土遺物
 この時期では陶器のみが生産されていました。目積みした皿類、器形などから見てごく早い段階のものが見られます。特徴的な製品として、後の磁器の大皿を彷彿させる、口径が30cmを超える大皿類が散見され、口縁部に簡素な文様を描いたもののほか、見込み付近に大胆な施文をしたものも出土しています。
1610年代~30年代の出土遺物
 山辺田窯跡で1610年代中頃に磁器が焼かれ始めたと推測され、その後、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合の頃まで陶器と併焼されていました。この陶磁器の併焼だけがこの年代の特徴です。ただ、陶器については前の段階で散見された口径が30cmを超える陶器の大皿類は皆無となり、代わって、すり鉢や片口鉢、小杯類などが残り、全体的に器種は単調です。
 生産の始まった磁器については下級な製品が多く、目積み皿の種類などは当時の有田の窯場の中では比較的多く、見込みに簡素な施文を施す花形に型打ちした皿などもあります。また、上級品とされる皿や箇形碗、天目形の碗、ややランクの下がる線描きのみのラフな施文の大型の碗類も見られ、いろいろな陶磁器が出土しています。
1630年代~40年代の出土遺物
 有田全体では陶器の生産がなくなり、磁器のみが焼かれた段階に入りました。山辺田では鮮やかな濃い色調の呉須(染付のための顔料)を用いた製品が多くなり、中皿類の種類と出土量が多く出土しています。これらは後に初期伊万里と呼ばれるものです。高台径が大きめになり、高台作りも丁寧で、だからといってハリ支えなどは見られず、山辺田の窯場が最も良質なものを多く生産した年代です。中でも、この後に続いて現れる古九谷様式に近い様相を示す、高台の径が大きく、裏文様や高台銘を配したものがあり、次の年代の製品(色絵磁器)を生み出す一歩手前まで来ていたように思います。
1640年代~50年代の出土遺物
 1640年代中頃以降、山辺田の窯場はその生産傾向に大きな変化を遂げながらも、閉窯に追い込まれるまでの年代です。その変化とは前の段階での初期伊万里が様式として確かなものとなり、これに古九谷様式の初期色絵磁器が加わったことです。上級品が古九谷様式の色絵磁器(後述)、下級品が初期伊万里といった、様式の違いによる製品の差別化が図られましたようです。
 なお、内外面に染付で縦縞を施す大鉢や小皿、変形皿をはじめとする染付の製品も出土し、初期伊万里の中でも上級品として扱われた大皿類も多く作られました。山辺田がこの時期の大型製品を量産する有田の中核的な窯場に急速に変わったといわれています。

出土遺物に見る色絵磁器片
 山辺田遺跡からはこれまでに1,000点以上の色絵磁器片(絵付けされたもの)が出土しており、加えて、色絵素地(絵付けされていないもの)の磁器片がさらに大量に出土しており、それらの主体が大皿であり、ほかに碗、鉢、瓶、器台などあるといわれます。
伝世品の色絵磁器には素地に染付を伴うものと伴わないものがあります。その生い立ちはまずは染付を伴う素地が焼かれ、やや遅れて白磁の素地が加わったと考えられています。白磁の素地は有田の最東端に位置する楠木谷窯跡で始まり、その技術の影響が他の窯場に及ぶ過程で山辺田の窯場にも伝わったと考えられています。
 大皿の素地の中で、染付を伴う最も早い段階での特徴は、径の大きい高台内に染付による二重の圏線に加え、高台内側の直ぐ下にも一重の圏線が配されていることです。この一重圏線のある大皿の磁器片が山辺田以外の窯場での出土例がないため、山辺田のものと見分けるのに極めて有効な方法と指摘されています。
 そして、それらの高台はがっちりとしその断面が三角形に近い形状をしていて、高台の削りも丁寧に仕上げられています。
 こうした初期の素地を用いた色絵磁器の伝世品としては五彩手の中でも百花手(上の画像)と称されるものに多く見られ、芙蓉手皿などのように内面を文様で埋め尽くした構図となっているといわれます。
 また、染付を伴う山辺田の磁器片には幾何文手と称される亀甲文などを内面に配したものもあります。また、景徳鎮の明末の祥瑞を模した祥瑞手には丸文を配したものや四方欅をはじめとする、地文で埋められているのが特徴であることが指摘されています。
 一方で、染付を伴わない白磁の素地を用いた色絵磁器には五彩手と青手があります。五彩手には山辺田の窯場を象徴する濃厚な縁や黄色などの寒色系の絵貝を主体とするものに加え、楠木谷窯跡の影響を受けたと考えられる、赤を多用したものなども見られます。加えて、この五彩手の中には外面の胴部に花唐草文を一周させたものなどが出土しています。
 青手は原則的には赤を用いず、黄、縁、紫の三色で施文されるものですが、外側面に雲気文を描き、高台内まで絵貝で塗り潰すタイプと高台内は塗らずに外側面に小さな丸い文様で埋めるタイプなど、いくつかのタイプのものが出土しています。
 また、畳付の外側面を深く削り込み、高台側面を含む外面全体に細かい唐草文を巡らし、高台内に圏線を配するものなどもあります。そして、これに類似する伝世品では高台内を白く残したものもありますが、内面や外面に黒の絵具で塗り潰した文様が描かれているのがこの山辺田の青手の特徴であるといわれています。

生産関連、その他の出土遺物
 出土遺物の中にはおそらく商品として生産されたものではなくて生産に関わる用具や部材として使われたと考えられるものがあります。それられは色絵磁器やその素地を生産したことを示すもので、色絵磁器の生産にはなくてはならない用具に関連したものです。
 最も多いのは絵貝や呉須を擦るための乳鉢で、乳棒もあり、赤の絵貝が入ったままの状態で出土しているものもあります。
 そして、絵付けをするための赤絵窯の内窯と外窯とみられる遺物も出土しております。内窯は土器質の甕状の形をし、内面には白色の粘土が貼られてあったと見られます。一方、外窯は登り窯と同様に塗り壁であったものと推測できます。併せて、赤絵窯の近辺からは赤い粘土の塊が多量に出土しています。
 その他の出土遺物としては、景徳鎮や樟州窯などの中国磁器もいくらか出土し、また、美濃の鼠志野の皿も見られます。おそらく、これらは生活用品といよりも磁器の製作のために参考にしたと考えられています。

 九谷古窯跡において発掘された出土遺物にはやはり数多くの陶磁器片が含まれ、併せて有田から導入されたと考えられる窯の構築部材なども見つかり、また道具類の遺物や錦窯(絵付け窯)の遺構も見つかっています。こうした九谷古窯跡の遺物が山辺田遺跡との関連(影響)があったことを示すものなのかを探ることが次のテーマであると考えています。
[T.K]

牡丹の大皿に観る「筆の冴え」 [ギャラリー・トークを聴く]

 2月17日、石川県九谷焼美術館において、開館15周年記念特別企画展『古九谷帰郷 牡丹の大皿に観る 筆の冴え』の開幕に合わせてギャラリートークが行われました。その内容は、同館長武腰潤氏による、古九谷(様式)「色絵牡丹蝶文大皿」(東京国立博物館所蔵)を中心にした、九谷焼作家としての興味深い解説でした。特に、この大皿の絵付けや線描の特異さと、肥前山辺田窯の素地との関連性に触れたことでした。

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≪古九谷「色絵牡丹蝶文大皿」(東京国立博物館所蔵)≫

 九谷焼は、古九谷以来、「絵付けが命」と言われてきます。それは古九谷の絵付けには絵心のある絵師がかかわったと考えられ、武腰館長も若い頃日本画や油絵を勉強されていたからこそ、この大皿に描かれた図案がまさに絵画のような表現であることに感動し、その後、古九谷風の色絵磁器の創作に取り組んだと述懐されました。

 古九谷は二次元的に表現されているものもありますが、この大皿は牡丹の花を中央に置いて、上の葉も下の葉も後ろにあるように三次元的に表現され、蝶も赤い線も牡丹のために付け加えられたのであって、あくまで牡丹の花に焦点が置かれていて、とても奥行きのある絵付けであるとの解説がありました。加えて、牡丹の色の塗り方が“色をのせて色を描いている”とも述べ、絵心のある人が絵付けするとこうなるといわれていました。

 そして、この大皿の線描は庄三風のものと違っているといわれました。その線は、美しく繊細に描かれたものではないものの、堂々として絵師が思いのままに描いていると述べられました。この線描についてはこのブログの中で既に取り上げました(2017年1月)が、線描の凄さが感じ取れるといわれます。武腰館長はこの筆さばきを「筆の冴え」と表現されたと思います。この大皿だけでなく、古九谷には唐呉須で細く長く引いた線が描かれているものがあり、その線描から、引き締まった腕節強い手で握った筆を、ぶれることなく、宙を切るように描いた、武芸を極めた絵師の筆運びに感動したのではないかと思います。

 解説を聴いていてふと思い出したのが将棋盤の目を刻む方法のひとつである“太刀盛り”のことでした。太刀盛りが古九谷の線描と直接関連があるとは考えられませんが、江戸時代に幕府によって保護され、武士から一般庶民に拡がっていった将棋の盤の目を刻む方法として“太刀盛り”が受け継がれてきています。(古くは江戸時代の貞亨年代の頃の「職人尽総合カルタ」にのっています)
 線の幅に合わせて刃を丸めた日本刀に温めた漆を付けて盤を斬るようにして漆を盛りつけていきます。刀の反りを利用して刀を刃先のほうから将棋盤に押し付け、刀が離れる時に漆が表面張力により、断面的に丸い連続線が盤の上に引けるのです。こうして盤に漆がしっかりと塗られた、細く、真っ直ぐな線が盛り上がり、長年使っても剥離しないといわれます。武士が関係したか不明ですが、腕節の強い職人が日本刀を握って引いたと想像されます。線の輪郭が鋭利な刃物で切り落としたように明瞭となり、深みある漆の光沢と調和して盤面から生気を感じさせるそうです。

 想像するに、この大皿の線描も絵の具を色絵磁器の上にのせて描かれたので盛り上がっているのではないかと思います。古九谷をはじめ九谷焼の絵付けの特色は絵の具を素地にのせて絵付けする、だからといって、絵の具が剥離を起こさないように素地と絵の具の相性を考えて調合する技術が生まれていたのです。

 さて、武腰館長は、「色絵牡丹蝶文大皿」が“ひょっとしたら、九谷で焼かれたものはないのではないか”、でも、“素地が九谷のものではないとしても、絵付けが九谷のものであるから、あきらかに古九谷である”と述べられました。一瞬、周りから驚きの声が上がりました。加えて、肥前山辺田窯の素地に九谷の絵師が絵付けしたとしても、山辺田窯が1650年頃に閉窯したとなると、肥前から素地を仕入れて九谷で絵付けすることができたのかと疑問を投げかけていました。それは、古九谷が1655年に焼かれ始めたというのが定説であるからで、一歩踏み込んで、古九谷が1655年以前に絵付けがなされていたと考え直さねばならのではないかと述べたのです。

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≪大皿の裏面に引かれた圏線≫

 上の画像は大皿の高台の内側を写したもので、画像からは、山辺田窯の色絵素地だけに見られる圏線の特色が見て取れます。高台内には、中心に近いところに二重圏線があり、高台の内側のすぐ下にもう一本の圏線が引かれています。確かに、定説に従えば、古九谷が焼かれ始めた時期と山辺田窯の閉窯の時期と間にずれがありますが、有田町教育委員会発刊の調査資料『山辺田遺跡』には、山辺田窯が閉窯したのが“1650年代の後半”と記述されていることから、加賀藩(大聖寺藩)によって山辺田窯が閉窯する直前に仕入れていたことも考えられます。その上、山辺田窯の周辺にあった丸尾窯でも山辺田窯の廃窯後に大皿の素地を焼いていたことがわかっています。こうしてみると、古九谷と肥前産の素地の関係についてはさらなる調査研究が必要ではないかと考えています。
[T.K]

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