So-net無料ブログ作成
前の3件 | -

九谷焼の赤絵の具 [九谷焼をもっと知る]

 古九谷から現代までの九谷焼の彩色について、特に、江戸末期から明治にかけての赤絵金彩や金襴手(赤地金襴手)が、あの古九谷の彩色とはほど遠いと思うことがあります。どちらかというと、幕末に寒色系の古九谷を再興させようとした中で、暖色系の九谷焼が好まれ、明治前半では赤絵金彩や金襴手が大いにもてはやされました。その後、九谷焼は多彩な彩色に戻ってきて今に至りましたが、その中で、弁柄という赤絵の具を使った赤絵細描がひときわ目立つ様式美を放っているように思います。

DSC_0504.jpg
≪古九谷の赤
石川県立美術館図録から≫

 古くから九谷焼の和絵の具に見られる赤絵の具は、古九谷の五彩手に入っていたものの、緑・紫・黄を主調とし、補色に紺青・赤が使用されていました。ただ、その赤は紫黒色を帯びた強い赤でありながら、素地の光沢を反映して極めて薄く感じられます。

DSC_0505.jpg
≪宮本屋窯の赤絵細描
石川県立美術館図録から≫

 再興九谷では、赤絵の具がよく使われるようになりました。春日山窯の呉須赤絵、若杉窯の赤と染付による伊万里風の彩色、さらに、小野窯、民山窯、そして最たるものが宮本窯の赤絵細描や赤絵金彩であり、九谷庄三による色絵に赤地金彩と次々に生まれました。このように、赤絵の具を多く使った再興九谷は、吉田屋窯と対比されて、見る者、使う者から人気があったように見えます。

雪山2.jpg
≪赤丸雪山の金襴手 個人蔵≫

 明治期になると、九谷焼は、これまでの彩色を一変させる時期を迎えたのです。この大きな変化を及ぼした大きな力は、明治7年のウィーン万国博覧会であったといわれ、それ以降、貿易九谷は洋絵の具を多用した、華麗な画風を海外に送り出しました。赤、黄、黄緑、緑、淡青、青、紫などの輸入顔料、そして金、銀を使った貿易九谷では、人物、花鳥、山水などが美麗に描かれました。
 ただ、洋絵の具は厚く盛らなくても濃淡を簡単に出すことができた反面、発色もうまくいかず、また九谷焼の素地に適さいない性質があったため、素地から絵の具が剥離するなど、粗悪な製品の問題を引き起こしました。そんなことから、九谷焼に適した顔料が研究開発され、化学的に工業的に大量に生産されるようになりました。もちろん、赤絵の具も改良され、多用されりことになったのです。

 ところが、明治後期からは輸出が低迷し始め、国内向けには日本画的な彩色が人気となり、大正・昭和と、赤絵の具が多用されることが少なくなりました。戦後、赤絵細描に情熱を注ぎこむ九谷焼作家 福島武山氏が現れ、弁柄を使う赤絵細描がまた一つの九谷焼の様式を築き上げました。

DSC_0506.jpg
≪福島武山の小紋模様
緑ヶ丘美術館図録から≫

 磁器の顔料としての弁柄のことを知ったのは、福島武山氏から聞いたときでした。調べていくうちに、赤色の顔料が地球上で一番多く存在し、それがベンガラでした。人類にとって身近な色であったので、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画のように旧石器時代から使われた最古の顔料です。日本でも古墳時代の壁画に使われましたが、本格的に使われ出したのが、江戸時代にインドのベンガル地方産のものを輸入してからで、「弁柄」と名づけられました。その弁柄は磁器の顔料や建築塗料の原料にもなり、日光東照宮など文化財修復に使用されてきました。

 福島氏は、誰もが驚嘆する赤絵細描の画風を生み出しましたが、岡山産の弁柄を使っているとことを聞きました。弁柄の中でも最適な球状微粒子で、良好な赤い色相を出すのはローハベンガラといわれ、このベンガラは、磁器の絵付け・漆器・歴史的建造物の弁柄塗装に多用されてきました。江戸時代に製造されたローハベンガラが最も高品質とされ、今でも、その弁柄が岡山県高梁市吹屋の西江邸の蔵に大切に保存されていて、福島氏はその弁柄を数十年間使い続けているとそうです。

 ところで、赤色をもってその存在感を示し続けてきた柿右衛門の赤絵の具をついでに調べてみましたところ、柿右衛門家には、様々な用途で使い分ける赤が一子相伝的に伝わり、例えば、朱色に近い「濃赤」(だみあか)は柿の実を色付けする色として、また、鮮やかな花に使う赤として「赤花」などがあり、その秘伝の調合方法を基に代々の感覚が織り込められだ「柿右衛門の赤」が創り出されてきたそうです。加えて、粒を細かくすればするほど、鮮やかな赤が生まれることから、その粒を小さくする作業を柿右衛門家では「すり」と呼んでいるそうです。

 福島氏もこの「すり」の作業について淡々と語っておられましたが、弁柄にガラスなどを混ぜ、すり粒をより小さくしていくほかに、筆、手の技などが備わってこそ、氏ならではの技によって赤絵細描が生まれ、氏による弁柄を使った赤絵細描が九谷焼の歴史に残る一つの様式を生み出し、それは、また弁柄という赤の顔料があってこそ生まれた氏独特の赤絵細描であると思えてきました。
[T.K]

東北、北海道に渡った九谷焼 [九谷焼をもっと知る]

 各地の美術館や博物館、時には神社などで展示されている陶磁器を見かけると、どうしてこんな遠くまで運ばれてきたのであろうかと思うことがあります。現在、石川県九谷焼美術館では、東北、北海道の個人、大学、博物館などの所蔵者から貸し出しを受けて展示されている数々の九谷焼を見て、まらこの展覧会に関連したギャラリートーク、大学の研究者による講演、図録などから、古九谷、再興九谷、そして明治以降の九谷焼が北海道まで運ばれた歴史、経緯のようなものがわかってきました。
 ひと口にいえば、東北、北海道には、江戸時代に肥前の陶磁器が船で運ばれていて、その後を受け継ぐように、明治以降の九谷焼が船で運ばれた時期があったということです。

 それでは、まず、肥前の陶磁器が運ばれた歴史から探ってみます。

DSC_0184.jpg
≪「カラツモノ」の方言の分布≫
(佐賀県立九州陶磁文化館研究紀要から)

 16世紀後半から陶器が唐津近辺で生産され始め、それが有田、波佐見にも拡がり、やがて、その陶器が肥前以外の各地に流通しました。それらは一般的な生活用具としての碗、皿に加えて、摺鉢、壺、甕に至る生活雑器で、東北を含めた日本海側の各地に船で運ばれました。それも、唐津焼などの陶片が東北の遺跡から数多く出土しているにもかかわらず、東日本の太平洋側で出土した例が少ないのです。そのことを示すのが日本海側(山形県くらいまで)に残る「カラツモノ」という方言です。それは唐津港から東北の日本海側の港に向け船積みされたことから、肥前の陶器が各産地に関係なく“やきもの”の総称として「カラツモノ」と呼ばれたからと考えられています。
 唐津焼から遅れて1610年代に、我が国最初の磁器が有田で誕生しました。最初は、朝鮮陶工によって染付が焼かれ、間もなく、中国の影響を得て色絵磁器の生産も始まりました。さらに、中国から輸入された景徳鎮を手本にして色絵磁器が焼かれましが、1644年の中国での内乱の影響で中国磁器の輸入がほとんど止まると、有田では製陶技術や絵付けを改良して、ついに景徳鎮地に匹敵するような“初期色絵磁器”が有田近辺の多くの窯で焼かれ始めました。こうして、有田焼は量産されると、有田近郊の伊万里港から船積みされました。こうして、「伊万里」が広まったのです。
 東北、北海道に向けて運ばれた肥前磁器に関する大学の研究者による調査研究によって、山形県酒田市亀ヶ崎城跡からは17世紀後半から18世紀前半の肥前産の色磁器片が出土し、また、青森県の日本海側の港に陸揚げされて陸路運ばれた色絵磁器の磁片が弘前城跡、さらには宮城県の仙台城跡からも見つかりました。さらに、松前藩との交易で交易品となった色絵磁器の磁片がその福岡城下でも見つかっています。このほかにも、日本海側の各地に伝世されている肥前磁器も江戸時代に運ばれたと思われます。

 次に、肥前の陶磁器の船輸送の歴史についてです。肥前から陶磁器が船で運ばれるようになったのは、すでにそうした航路ができつつあったからと考えられます。安土桃山時代に、太閤秀吉が朝鮮出兵のために名護屋城(現在の佐賀県唐津市呼子町)を築城するため多くの物資を運ぶために、また、朝鮮遠征時には兵士を運ぶために、加賀藩に対し船の建造を命じました。その後も秀吉は伏見城とその城下町を建設するための材木を津軽氏など奥羽の大小名に命じて供出させましたが、その木材を敦賀、若狭、能登、越中などの商人の船で運ばせました。
また、17世紀中ごろ、関西の商人によって加賀藩の100万石の米が船輸送されると、帰り荷を運ぶことも始まって東北まで航路が伸びたといわれます。肥前陶磁器も伊万里や唐津の港から北陸の港まで運ばれ、さらに北陸の港で北国船に積み替えられ東北に運ばれたと考えられます。
 さらに、寛文11年(1672)、河村瑞賢によって、松前藩との交易や天領の出羽からの米輸送のために西回りで江戸まで航路が整備され、やがて、元禄のころ(1688年~1704年)には、いわゆる「北前船」による輸送が活発化しました。これによって、それまで敦賀、小浜経由の陸路で運んでいた物資が下関、瀬戸内海を経由して関西に運ばれるようになりました。こうして「北前船」による航路が出来上がったといわれます。

 一方で、18世紀になると、ますます一般の人々の生活様式や好みが変化すると、肥前の染付碗(くわらんか碗 普段使いの庶民の雑器)などの安価な食器が加賀藩などにたくさん運ばれました。しかし、18世紀後半になると、加賀藩では大きな問題が起こりました。それは肥前の陶磁器を大量に購入したことによる藩財政の悪化でした。このために加賀藩は磁器の自製化を推し進めと考えられます。
 19世紀初め、加賀藩内では磁器生産が始まり、春日山窯を皮切りに、民山窯、若杉窯、粟生屋窯、小野窯、吉田屋窯、松山窯、正院焼などが次々に開かれ、生活雑器も生産されました。こうして、加賀藩では磁器の生産が盛んになると、肥前産の陶磁器の購入も減ったといわれます。
 さらに、明治以降の九谷焼が日本海側の港に大量に船で運ばれたことが今回の美術館の調査で具体的にわかってきました。これは輸出によって九谷焼の生産技術やブランド力が高まり、国内向けにも九谷焼が広がりました。このとき、「北前船」の船主に北陸出身者が多かったことも影響して、九谷焼が東北、北海道に「北前船」で運ばれたと考えられます。

DSC_0186.jpg
≪九谷焼の見つかった地点≫
(図録「東北・北海道に渡った九谷焼」から)

 北海道の日本海側では、浮き沈みもあったものの、江戸時代から昭和30年代初めまでニシン漁が盛んに行われていました。松前、余市、小樽、増毛などの海岸にはニシン漁の行われる拠点(漁場)が多くでき、番屋、加工施設、海産干場、その他の作業小屋などで働く番人、稼人、その地域の役人などが集落を作りました。例えば、余市の一つの漁場だけでも109戸に5940人が住んでいました。その漁場では、例年、ニシン漁の始まる3月初め、“顔合わせ会”が行われ、作業準備が終われば、40~50人規模の宴会が行われ、時には100人超の時もあったといわれます。

 では、どのような九谷焼が宴会などで使われたか、美術館の調査から見てみます。
 九谷焼と確認できる食器類として、徳利(蓋付きもあり)、猪口、盃洗、茶碗(蓋付きもあり)、大中小の皿、豆皿など多種類であり、一つ一つの種類が大量かつ組み物であることです。こうした九谷焼は、宴会のときに引っ張り出されてきては、宴会が終わると、また共箱に戻して保管されました。
 例えば、番屋の一つ、川内家が大正9年に購入した記録が残されています。それによると、購入した九谷焼の内訳は、蓋付き湯呑22点、大皿10点、茶碗煎11点、蓋付き銚子10点、湯呑52点、会席膳飯碗、小皿40点、セトモノ(瀬戸物)10点など合計294点でした。このことからも、宴会の時に使用される食器類も膨大であったことがうかがわれます。ですから、こうした漁場が北海道の日本海側の各地にあったことから、全体として九谷焼への需要が相当であり、そうした荷物を運ぶには「北前船」が必要であったと考えられます。
 次に、そうした九谷焼の高台に書かれた銘についても、その件数だけでも345件に上り、圧倒的に多いのが伝統的な「角福」で、次に、よく見られるのが「九谷」であることがわかりました。そのほか、製陶者、絵付け者の銘である「谷口(金陽堂)」「鏑木(商舗)」「久隆堂」「(浅井)一毫」などの銘も見られます。また、銘で興味深いのは詳細不明な「松栄堂」「馬野」といった銘が組み物に見られることです。想像ですが、これらの銘は、商人が“プライベートブランド”として九谷焼の一流の製陶者、絵付け者に制作を依頼したと考えられます。その他、発注者の名前や家紋を裏に入れたものもあります。買主の求めに応じて作った結果、多種多彩な九谷焼が誕生したことがうかがわせます。
 もう一つ注目すべき調査の成果として、今回の展覧会のため初めて公開された古九谷の大平鉢です。現在、この大平鉢は青森県むつ市の個人が秘蔵しているものですが、所有者の先祖がこの大平鉢をいつ、どこで手に入れたかは不詳ですが、持ち主の先祖が江戸時代に北陸からむつ市に移住した人々の子孫であると知り、非常に興味を覚えます。

 今回の美術館の調査で、明治以降の九谷焼が北海道の日本海側の港にたくさん「北前船」で運ばれたことがわかりましたが、「北前船」による交易の内容を示す“仕切書”に伊万里、九谷焼などと書かれず、船のバラストとして代用されていた時代もあったといいますから、調査自体も大変であったと思われます。
 そして、明治大正時代に輸出で培われた九谷焼のブランド力が高まり、また福井、加賀の人々が東北、北海道との間を北前船で行き来し、またそこに移住したことで、そうした人々と共に食文化や“もてなしの文化”が九谷焼を通して遠い北海道に「北前船」で運ばれたように思えてきます。多くの九谷焼が大量に組み物で北海道のニシン漁場経営者のところに運ばれ、宴会で使用されたことは、明治大正時代になっても、九谷焼が“もてなし”や“ハレの場”の器として重宝されたことがわかり、今回の調査が非常に有意義であったと思えるのです。
[T.K]

商標登録された「角福」銘 [九谷焼をもっと知る]


DSC_0198.jpg
≪柿右衛門窯の「渦福」銘≫

 九谷焼の裏銘を見ていると、古九谷に始まり再興九谷や明治九谷に至るまで、多種多様な裏銘を見せてくれますが、その由来や意味や、さらに目的を探ってみると、非常に興味が湧いてきます。
 その一つが、よく見かける「角福」です。古くから、中国では、美術工芸品の銘款に「福」や「寿」の字が縁起ものとして愛用され、それらの字は磁器にも見られます。わが国においても「福」や「寿」の字が中国の磁器から写して裏銘に使っていたので、「福」の字を書き入れることは肥前の磁器に始まり、そのことが九谷焼、京焼などにも広がったと考えられます。
 ですから、当初から、「福」の字は特定の窯元の専用裏銘ではなく、枠取りの線も単線や二重線があり、また文字自体も篆・楷・草の諸体が使われるなど、多年の模写を重ねるうちに千差万別の「角福」の裏銘が生まれました。

 ところが、そのような「角福」でしたが、一つだけ特別なものがありました。それが「渦福」です。その「渦福」が明治時代に商標登録され、一人の製陶者(窯)だけに専用的に使用されたのです。一方、こうした事例を九谷焼においては未だ見たことがないのですが、裏銘の意味や目的を知る上で興味あることと思いました。

 日本の磁器で裏銘が始まったのは、1630年代ごろから有田の磁器に現れ始め、中でも「角福」は吉祥を意味する銘として多用されました。これは、特に特定の窯場や作者を示すものではなく、自由に用いたことを意味しました。「角福」の初期は篆(てん)書体の「福」の字で、サイズは一般的に小さいものが多かったのですが、1650年代になると、字体が大きくなり、一重の枠取りも見られるようになりました。
 その後、1670-80年代には、「角福」の書体が草書体になり、さらに「福」の字の旁(かたわら)の田の字が“渦を巻いている”「福」、いわゆる「渦福」が出現しました。しかもその「渦福」が柿右衛門窯の出土品や伝世品に多かったことから、長らく柿右衛門窯の特別な銘と考えられていました。しかし、さらに調べていくと、「渦福」が肥前のさまざまな窯で用いられていたこともわかってきました。
 そして、この時期になると、肥前の磁器自体に文様の表現や成形などの技術にも窯ごとに差がみられているようになり、「渦福」の書き方も丁寧なものから粗雑なものまであって、さらに18世紀になると、「渦福」は除々に粗雑な書き方になって変わり、18世紀後半にはほとんど姿を消してしまいました。

 ところが、1885年(明治18年)、突如、十一代柿右衛門(1839年 - 1916年、1860年に襲名)によって「渦福」が自家の商標として登録されたのです。柿右衛門窯が「渦福」を商標登録した目的は、恐らく、輸出において隆盛を誇っていた明治九谷との差別化を図り、柿右衛門窯の製品のブランド力を上げるためであったと思われます。
 ただ、「渦福」の銘のある製品は柿右衛門窯の作品であることを意味するようになったものの、商標登録された「渦福」が柿右衛門窯専用となったため、しばしば他の製陶家との係争を起こしました。
 その後、柿右衛門窯が厳しい経営に陥っていた大正8年、打開策として「柿右衛門窯合資会社」が設立されましたが、その際に、商標となった「渦福」が役に立ちました。他の出資者たちが現金二万円を出資したのに対し、資金難であった柿右衛門窯は「渦福」の商標権の評価額 五千円をもって現物出資しました。当時、「渦福」は商標権としてかなり価値があったのです。

DSC_0190.jpg
DSC_0191.jpg
≪「渦福」銘のぐい吞みと十三代柿右衛門銘の花瓶 個人蔵≫

 しかし、昭和3年(1928)、十二代柿右衛門が合資会社の経営から離れると、「渦福」の商標権は合資会社に帰属したままであったため、柿右衛門窯自体では「渦福」を使えなくなりました。以来、柿右衛門窯ではその作品に「柿右衛門」の裏銘を入れましたので、市場では合資会社による「渦福」銘の作品と、柿右衛門窯による「柿右衛門」銘の作品が共に存在するという事態になりました。しかし、昭和44年(1969)に合資会社が解散となり、「渦福」の専用権は合資会社から柿右衛門窯へ再び戻りましたが、以後、使われることがなくなったといわれます。

 一方の明治九谷の裏銘はどうであったかをみると、大きな違いがありました。明治九谷では、輸出のブランド力を高めるために、また輸入国の求めに応じて、多くの赤絵金彩や金襴手の輸出品には「九谷(製)」「加賀国」「大日本国」など産地銘を書き入れました。また、青九谷には古九谷や吉田屋の伝統的な「福」の字が愛用されたので、「渦福」の裏銘が書き入れられることはなく、また係争を起こすようなことはなかったようです。

 法律的には登録商標という権利は排他的であり、自家の製品の強みとなりますが、誰もが使っていた商標(裏銘)を商標登録したことが非常に珍しく、混乱が起こりました。「福」の字は、吉祥を意味する銘の一つで、各地の窯場で自由に用いられた裏銘でしたので、だからといって、それほど差別化の効果がなかったと考えられます。強いて違いをいうならば、有田の磁器では「角福」が草体であることが多く、九谷焼では古九谷や吉田屋を模した「福」の字が多いといえる程度のことなのです。それは、何よりも、九谷焼では古九谷や吉田屋の伝統的な「福」の字を転用することに意味や目的があると考える作陶家が多かったからと思われます。
 「渦福」の商標は、柿右衛門窯と今右衛門窯との係争問題にもなったほど、かえって、有田焼全体のイメージダウンとなったのは皮肉なことです。一方で、いろいろな技術を開発し、それを磨いてブランド力を高めた明治九谷とは少し違っていたのです。
[T.K]

前の3件 | -