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前田利常の収集した陶磁器 [九谷焼をもっと知る]

 本ブログの『 加賀藩の越中瀬戸焼と九谷焼 』③で、「利常は、伝統工芸文化の振興を目的とし、当時海外よりもたらされる貴重な文物を収集するため、肥前鍋島藩の肥前平戸や長崎に家臣を常駐させたという。裂(きれ 中国の元・明・清時代に中国などで製作された金襴・緞子(どんす)・錦など)などの染織品、陶磁器(中国、朝鮮の陶磁器のほか、東インド会社を通じオランダのデルフト陶器も含まれる)などを買い集めた。」と書いた。

 そして、そのことを、石川県立美術館の「加越能の美術 縄文から江戸時代までの名宝」展で展観することができた。あらためて、加賀藩ゆかりの美術工芸品の多様さに驚いたが、その中には加賀藩第3代藩主前田利常が収集した数々の美術工芸品と、九谷焼(古九谷)と深い係わりがあったと思われる陶磁器も含まれ、興味深く見ることができた。

三彩金襴手双耳瓶 中国明時代
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 中国明時代、日本に伝来した法花・交趾と呼ばれる三彩陶器のひとつである。高さ50cm、径20cmほどで、1対から成っている。銅器のような形をしており、地は碧青釉で塗り埋められ、文様が線刻されている。頸の上部に芭蕉の葉、胴には龍文、下部には唐草が彫られている。文様の彩色は、雷文や龍文を金彩で、波を白で、芭蕉の葉、唐草を紫で施されている。明暦3年に利常が小松天満宮の造営に際し寄進したといわれ、華やかであり、また力強さを感じる。

和蘭陀白雁香合 デルフト窯  オランダ17世紀
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 細い頸を長くのばした白雁の姿で、胸から羽根を横に上下二つに分かれている。普通のデルフト焼は白地に錫釉で施された青(デルフトブルー)の模様が多いが、この品は、全体に乳白色の白釉が厚くかかっていて、赤の絵具で嘴や目、頸の付け根の2本の線、足などを彩り、また青で足と足の間を彩ってある。日本には香合として使われるために輸入されたようである。

色絵梅花図平水指 野々村仁清 江戸時代17世紀
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 やや黄の白釉をかけた平面でない筒の側面に、梅の老木と花を、金、銀、赤、黒、緑で、蒔絵のように何重もの工程を経て加飾している。上絵の彩りとその発色がまさに仁清手といわれるにふさわしい。
 仁清は、京都粟田口で轆轤を修業し、瀬戸で釉薬を勉強して京都に戻り、1647年頃御室の仁和寺近くで開窯し、それまでの釉薬だけ掛かったもの、鉄と呉須で描いた銹絵染付から多彩な色絵へ京焼を大転換させた。唐物中心の茶陶を求めていた利常であったが、加賀藩の茶匠でもあった大茶人・金森宗和の指導を受けていた仁清であったから、仁清の色絵に関心を持ち、仁清陶だけは別格に扱ったのではないかと思われる。このことは仁清の大きな顧客が加賀藩であったことからもうかがわれる。

色絵叭々鳥(ははちょう)図平鉢 古九谷 江戸時代17世紀
梅武双鳥図存清盆 中国 明時代15~16世紀
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≪北国新聞2010.9.12付から≫
 漆器盆は「梅竹双鳥図存清盆(そうちょうずぞんせいぼん)」(県指定文化財、個人蔵)で15~16世紀、中国明代に作られた。前田家、とりわけ3代加賀藩主利常は、海外の美術工芸品の収集に熱心で、当時の収集品の中にこの漆器盆が含まれていた可能性もある。
 両者は今回初めて比較鑑賞できるよう、同じケース内で展示された。いずれも木の枝に尾の長い鳥が2羽止まり、さえずり合っているような情景が描かれている。枝ぶりまで酷似しているため陶磁研究者らから「漆器盆の絵が、古九谷の平鉢の絵のもとになった」と指摘されてきた。
 開場式後の解説では県立美術館の嶋崎丞館長が「絵がまったく一緒。手本を見ながら写している。いろいろなものを消化し、自分の古九谷の世界を作り出した典型的な例ではなかろうか」と語り、前田家の美意識が、美術的価値の高い古九谷の色絵をはぐくんだとした。


 利常が生きた江戸時代初期は、寛永文化(*)の世であり、加賀の地に独自の文化が生まれつつあった。利常は、持てる莫大な財力を戦に使うことはもうないと考え、早くから加賀の地に、京都や江戸にも匹敵する独特の文化を築くため藩政を転換したのである。
 当時の京都は、焼き物以外に漆器や織物、絵画などいろいろな美術工芸品が集まり、そうした焼き物以外の品々と影響し合い、たとえば漆器を陶器で作る、着物の小紋の柄を入れるといったコラボレーションが盛んに行われていたところであった。このことを知る利常は、桃山文化を継承する王朝風の華麗な京都の美術工芸に加賀の美術工芸の行方を重ね合わせながらも、独自の武家の文化を築くために金沢の地に文物を収集し、名工名人を招聘したと思われる。
 そのひとつに、陶磁器も収集したと見られる。長崎を窓口として舶載される陶磁器、漆芸品を収集、柿右衛門の「赤絵物」を買い付け(*)、仁清の色絵に目を向け、狩野探幽の一番弟子であった久隅守景を招聘した。また彩色が施された「和蘭陀白雁香合」のようなデルフト陶も注文したと思われる。
 こうして、利常は、収集した品々と焼き物以外の品々を見ながら造り出された、焼き物に対する独特の創意を色絵磁器である古九谷に表したと考える。それ故に、大聖寺藩前田利治(利常三男)を支援して、青手、色絵五彩手の様式を生み出した古九谷には、他の陶磁器に見られないスケールの大きさと、豪放さと華麗さとをあわせ持った作風をだれもが感じるのであろうと思うのである。

(*)寛永文化
16世紀の桃山文化と17世紀後半の元禄文化に挟まれた17世紀前半(江戸時代初期)の文化。寛永年間を中心として、慶長あるいは元和から寛文年間の約80年前後の時期を指す。
寛永文化の中心は京都であったとされ、中世以来の伝統を引き継ぐ町衆勢力と後水尾天皇を中心とする朝廷勢力が、封建制を強化する江戸幕府に対抗する形で古典文芸・文化の興隆を生み出し、後に江戸においても儒学・武家を中軸とした文化が形成され、東西に2焦点の楕円形の文化構造が互いに交錯しながら各地に広がり、金沢などの地方都市を巻き込んでいった。
初期には出雲阿国や古田重然に代表されるように桃山文化の影響を受けた「かぶき」の文化が一世を風靡したが、元和偃武後には各階層において様々なサロンが形成されるようになった。
代表的な人物としては、茶の湯(千宗旦・金森宗和・小堀遠州)、生け花(後水尾天皇・池坊専好)、文学(安楽庵策伝・三浦為春・松永貞徳・烏丸光広など)、儒学(石川丈山・林羅山・堀正意)、禅(沢庵宗彭・一糸文守・鈴木正三)、寛永の三筆(近衛信尹・松花堂昭乗・本阿弥光悦)、書(角倉素庵・近衛信尋)、絵画(俵屋宗達・狩野探幽)、陶芸(野々村仁清)などが挙げられる。また当時の建築物としては智仁親王の桂離宮・後水尾天皇の修学院離宮・徳川家光の日光東照宮などが著名である。

柿右衛門からの「赤絵物」の買い付け
酒井田柿右衛門家に伝わる古文書に、初代柿右衛門が1647年に初めて長崎で「加賀筑前様御買物師」に赤絵物を売ったと書かれている。前田利常は、光高が急逝し綱紀がまだ幼かったため後見人となっていたが、柿右衛門によって始められたことが知り、美術工芸の振興ために文物の収集を続けたと考えられる。
[T.K]