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江沼九谷の指導者 竹内吟秋 [九谷焼をもっと知る]

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竹内吟秋作「赤絵金彩龍図花瓶」
(石川県九谷焼美術館 所蔵)

 日本の陶磁器産地では、開国した後、欧米を主たる輸出市場としたため、欧米人の美意識に応える必要が出てきました。こうして、明治時代の陶磁器は、政府によって万国博覧会に出品するために買上げてもらえるだけの美術工芸品のレベルまでになりました。
 日本の陶磁器の中で初めて万国博覧会に出品したのが、慶応3年(1867)のパリ万国博覧会における京焼と薩摩焼(金襴手)でした。追うようにして、九谷焼でも新しい加飾法の開発が進められた結果、“ジャパンクタニ”と呼ばれる、金沢九谷と能美九谷を中心した貿易九谷が大いにもてはやされるようになりました。

 こうした中でも、江戸末期に吉田屋窯などを生み出した江沼九谷では、明治期の欧米市場ではいわゆる古九谷様式よりも八郎手に代表される赤絵金彩や赤絵細描に注目が集まりました。そうしたとき、この様式で優品を制作したのが竹内吟秋と浅井一毫でした。
 二人の作品に関し、元東京国立博物館陶磁室長であった矢部良明氏は「完璧なほどの構図をひいて、絵画風の図案を描き込む。染付と赤と金が織りなす豪華さは目にもまばゆいほどの完全技巧を披露してくれた。あるいは中国景徳鎮と競い合うような気概があったかとおもわせるほど、清朝官窯の完成度と比肩して遜色のないみごとさである。」と評しています。

 そこで、この二人がどのように加飾法を極めたかを考えてみました。一毫が伝統的な八郎手の加飾法を若くして極めたのに対し、吟秋は、絵画における画法の研鑽を積んでから、赤絵金彩を制作し、その傍ら、長くにわたり古九谷の陶法を研究し続けました。こうして、吟秋は明治九谷の他の作者には見られない吟秋独自の絵画的画風を築いたといわれます。

 吟秋は、13歳のとき(弘化2年(1845))から十数年間、絵画を堀文錦(加賀藩士)、小嶋春晁(谷文晁の門人)から学びました。それというのも、当時、南画家が多く輩出され続け南画が広がるにつれて、武士の中には南画を新たな教養の一つとする者が多くなりました。ですから、江戸末期に、大聖寺藩士であった吟秋がこの画法に関心を持ったのも自然の成り行きでした。この若いときの修業から、吟秋が明治期になって九谷焼の制作に臨んだとき、南画などをもとに生み出した絵画的画法を使ったとされます。

 南画が盛んになった背景は、江戸幕府の開幕以来、絵画の世界では幕府御用絵師であった狩野派の絵師が幕府のみならず各藩にもお抱えされていましたが、江戸末期になると、この既成の絵画に満足できなくなって、新しい絵画の流れが関西と関東で起こりました。それが南宗画と北宗画とを折衷した南画でした。それは武士や文人の教養が絵画に表されたものといわれ、彼らの絵画は仲間との交誼を通して影響し合ったといわれます。常に新鮮な描き方を求めたことから、いろいろな流派を生み出しました。中でも、田安徳川家の下役人で、後に漢文学者となり、日本画家となった谷文晁(1763-1840)は、狩野探幽を尊敬し、一時、狩野派に絵画を習ったことがありましたが、関東南画の大成者となりました。文晁は画塾を開き、多くの画家を育てました。吟秋が学んだ小嶋春晁もその一人でした。

 南画の一つの特色として、『八種画譜』『芥子園画伝』などをもとに、画家それぞれの柔軟な筆法と豊かな詩情によって、日本の風土に根ざした新しい様式で描いたことです。その『八種画譜』は、すでに、100年以上も前に大聖寺藩の絵師(藩士といわれます)にとって新しいものと映り、古九谷の図案を描くときに用いられていました。古九谷の絵師は詩に添えられた中国画を単に模倣することなく、豊かな詩情をもって古九谷の図案にかえていたことに驚かされます。
 そして、構図がユニークであるということです。木々などに囲まれた背景にして故事に関わる人物を収めた構図、あるいは、構成のしっかりした大画面にそのほとんどを自然景観の描写で埋めた構図など、奇抜で大胆であり、狩野派にはない新鮮な雰囲気を醸し出しています。

 吟秋の「赤絵金彩龍図花瓶」(石川県九谷焼美術館所蔵)を見ていても、これまでの九谷焼にない新鮮さを感じます。ふっくらと丸みのある花瓶の真白な素地に、上から下にかけて、金と赤で描かれた龍が雲を突き破って天に昇る様子をとらえた図案には勢いがあり、龍と雲のほか何の紋様もなく、図案と余白のコントラストが見事な作品です。筆が走り、速い運筆で、狩野派のタッチに負けない新しい構図を感じさせます。

 次に、吟秋の陶法について述べてみます。江戸末期、南画の画法に接した吟秋でしたが、明治初めの激動期に役人として働いたので、いまだ九谷焼の制作にまで至りませんでした。転機がやってきたのは、明治7年(1874)、石川県大聖寺出張所の役人から江沼郡の区長に就任したときでした。この区には古九谷の古窯のあった九谷村、再興九谷の地 山代村など九谷焼ゆかりの地域が含まれていたことから、吟秋は九谷焼の殖産に取り組んでいるうち、自らも作陶に心を動かされました。
 折しも、大蔵寿楽と塚谷竹軒が九谷本窯の再建を試みていたところであったので、彼らから素地の製法を学びました。特に、永楽和全の門人である寿楽から京風(都会風)で雅な器体の成形を学んだことが考えられます。
 さらに、自宅に窯を築き、九谷焼の制作に取り組む傍ら、京都粟田口の窯元 十六代 雲林院寶山(文蔵 文政3年(1820)生、明治22年(1889)歿)を招いて、数か月にわたり、やきものについて所説を聴きました。何故、吟秋が寶山を選んだかは定かでなく、おそらく、当時、陶磁器生産の先進地である京都粟田口で名の知られた窯元であったためか、あるいは金沢春日山窯を興した青木木米が十三代 寶山から陶法を学んだことに倣ったのではないかと思われます。
*「寶山」は、窯元雲林院家の九代目が大和生駒山寶山寺の寶山湛海より「寶山」の号を贈られて以来、雲林院の作品に「寶山」の印を押したことから、寶山が通名となり、寶山焼とも呼ばれました。
吟秋が所説を聴いた寶山より三代前の寶山から二代 高橋道八(仁阿弥道八)、青木木米が学びました。十六代 寶山は、粟田口にある門跡寺院 青蓮院宮(しょうれんいんのみや)の御用をつとめたことから、安政4年「泰平」の号と印をあたえられました。屋号を茶碗屋と称したように、煎茶器を得意としました。主に、京焼の色絵陶器を制作し、その作品は端正でいて気品に溢れ、仁清風の色づかいに似た作品を制作しました。

 吟秋は、十六代 寶山から、全国の陶磁器における名工の技、陶法などを聴いたとみられます。そして、名工による陶磁器の構図、賦彩なども知ることとなり、陶画でも画法の重要性を認識したと思われます。こうして、明治11年(1878)、陶画工を養成するため、私学校「維新舎」を開校し、また、明治27年(1894)、石川県工業学校陶磁科の講師(後に教諭となる)として招かれました。これまでに、名工が多くの門人を集めて流派を作ったことはありましたが、磁器の陶法や画法を広く教えたのは吟秋が初めてでした。これら生徒の中からは優れた陶画工が輩出し、九谷焼の陶法が後継者に引き継がれました。

 全体的にみると、一毫が赤絵細描を主体に作陶し続け、名声を得ましたが、吟秋は、上述の「赤絵金彩龍図花瓶」のような赤絵金彩から、今回の企画展で展示されている「色絵山水図隅切皿」(個人蔵)のような古九谷風の作品まで幅広く制作しました。それは、吟秋が、九谷陶器会社の時から、古九谷の陶法を再現することに熱意をもち続けていたからこそ、可能でした。遂に、古九谷から模写した、約100点に及ぶ図集「古九谷焼之図」を完成させました。その図集は吟秋自身が古九谷を手にして、図案、賦彩などをこと細かに書き残したものです。
 このように、吟秋・一毫の兄弟は、そろって、それぞれの様式を極め、江沼九谷の名声を高めることに貢献し、そして、江沼九谷の激動期を乗り切るためにふさわしい指導者であったと思います。
[T. K]

明治期に「開国」に臨んだ江沼九谷 [九谷焼をもっと知る]

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≪「江沼九谷の開国」展のパンフから≫

 現在、石川県九谷焼美術館で「江沼九谷の開国」展が開催されています。明治期の変動の中で江沼九谷(江沼郡・現在の加賀市で焼かれた九谷焼を総称したもの)がどのようにしてその変動に対応したかについて探り、それのために、その当時に制作された作品、特に竹内吟秋・浅井一毫の作品を中心に46点を展観しました。

 日本が開国して間もなく、明治政府は、明治6年(1875)のウィーン万国博覧会に選りすぐりの工芸品を出品して欧米に好まれる工芸品がどういうものであるかを模索しながら、国内では内国勧業博覧会を開いて、“売れる工芸品”を振興しようとしました。政府は、外貨獲得と殖産興業を狙いました。そこで、万国博覧会会場で工芸品を販売するため、日本の名産地に“売れる工芸品”を作るように指導し、内国勧業博覧会を開催しては各地の工芸品の品質向上と量産を促しました。勧業博覧会は品評会でもあり、産業見本市のようなものでした。
 そして、この頃は文明開化が叫ばれていたときでしたので、“美術”とい言葉も使われ始めました。その言葉の元は“工芸”を意味するドイツ語でしたが、“美術”と官製翻訳されたといわれます。このため“美術”は実質的に“工芸”と捉えられ、その枠の中に絵画、彫刻などが含まれていたといいますから、輸出できる工業製品のない当時の欧米でもいかに工芸品が重要であったかがわかります。
 こうした状況下でしたので、万国博覧会事務局が目指したのは、本来、日本の美術に根差した工芸品であるはずでしたが、結局、欧米に気に入られる、日本ならではのデザインのされた工芸品を名産地で作らせることでした。事務局は、工芸品に日本的な絵画性が取り入れることを重視し、明治9年(1876)のフィラデルフィア万国博覧会、翌10年の第一回内国勧業博覧会に向けて、明治7~8年から、一流の日本画家(狩野派の画家が含まていました)の手を借りて工芸品の下絵の図録である「温知図録」を数版にわたり編纂し、これらをもって工芸品の生産会社、産地などを指導することを明治18年(1885)ころまで続けました。当然ながら、九谷焼産地でも“売れる九谷焼”の生産に対応することになりました。しかし、こうした国の政策は伝統的な様式美を守ってきた九谷焼の産地にとって「開国」的な変化であったと想像されます。

 当時、九谷焼は能美、金沢、江沼のそれぞれの地方で作られていましたが、その成り立ちは異なるものでした。能美地方では、江戸末期、すでに多くの陶画工(絵付業者)が盛んに活動し、それに合わせて、素地作りの製陶業、陶器商人が登場していました。こうした分業化による量産体制の下で、寺井、佐野、小松あたりで生産されていた九谷焼(総称して能美九谷といわれます)にとっては官製デザインの製品を生産することは容易であったと考えられます。上述の「温知図録」には九谷庄三、松本佐平、石田聚精らの名工に渡った図案が掲載されています。ただ、現在のところ、渡った図案と実物との照合が十分にできていないのが実情です。(後述の金沢九谷や江沼九谷の場合でも同じ状況です)
 次に、金沢地方についても政府の政策は容易に受け入れられました。金沢が加賀文化の中心的なところでしたので、元加賀藩お抱えの狩野派絵師に習った、絵心のある藩士が主体になって九谷焼の絵付工場が設立されましたので、絵付業者が増え出し、加えて石川県の支援を受け、工芸品の試験場、審査の場となった博物館などが設立されました。それに加えて江戸末期からの陶器商人も九谷焼の製造に意欲的でした。こうした好条件のもと、金沢地方で制作された九谷焼(総称して金沢九谷といわれます)は、次第に生産量を増し、品質においても能美九谷を超えるまでになり、貿易九谷の中心となりました。やはり、「温知図録」に、阿部碧海、春名繁春、円中孫平(陶器商人)らに渡った図案が数多く掲載されています。
 こうして、この二つの地方の九谷焼は、いわゆる「ジャパン・クタニ」の名で欧米に広まり、明治20年(1887)頃には日本の輸出陶磁器の中で第一位を占めるようにました。

関連サイト 九谷焼 解説ボランティア 明治九谷の歴史 を参照してください。

 一方、江沼地方では様相が異なりました。この地方には幕末から窯の火を絶やさずに制作を続けていた、松山窯、木崎窯、九谷本窯(永楽窯)があり、伝統的な九谷焼の制作に情熱を傾ける陶工や陶画工が多くいました。ですから、分業による量産体制のもとでの生産が始まったのは遅く、やっと、明治12年(1879)に設立された九谷陶器会社のときでした。
 この会社の創立者で社長となった、飛鳥井 清は、かねてから江沼地方の勧業に熱意を持っていましたので、設立前の明治9年(1876)にフィラデルフィア万国博覧会を視察して“売れる九谷焼”を考案したようです。そして、明治10年(1877)の第一回内国博覧会と翌年のパリ万国博覧会に飛鳥井 清の名で出品されています。官製デザインによる活発な制作を物語るかのように、飛鳥井 清に渡った図案が「温知図録」に数多く掲載されています。
 この九谷陶器会社には、当初、竹内吟秋、浅井一毫、大蔵寿楽ら優れた陶画工や陶工らがいましたが、質の高い量産体制は、彼らが早々に辞職したため、設立間もなく崩れ、業績が低迷することとなりました。その後、九谷陶器本社の新体制に受け継がれましたが、業績を挽回させることができず、その会社は明治33年(1900)に解散しました。

 ところが、会社組織による量産生産に代わるものとして、小規模な窯元が誕生しました。この地方は、再興九谷以来、手作りの良品を制作する気風が強い風土でしたので、陶画工や陶工の中に独立する者が多く、明治から大正にかけ、素地作りから始まる伝統的な生産体制を持つ窯元が出てきました。それが北出窯(青泉窯)、菁華窯、秋塘窯などでした。これらの窯元は優れた陶画工や陶工を抱えた小規模な生産体制のもと、窯元独特の画風の作品を制作しました。ですから、金沢九谷や能美九谷と違い、大きな変化(輸出の凋落、世界恐慌、戦争)に翻弄されながらも生き延びて、今に継承できたと考えられます。こうした伝統的な体制の窯元がこの地方の一つの特色となりました。

 そして、付け加えなくてはならない特色は、九谷陶器会社を辞職し窯元にもならなかった、竹内吟秋と浅井一毫の二人が、美術工芸と産業(工芸の商品化)の狭間に立たされながらも、美術工芸の道を究め続け、そのことが今に受け継がれていることです。
 竹内吟秋は、“九谷焼は絵付を離れず”の信念のもと、早くから図案の重要性を認識して陶画工を養成すべきと考え、明治11年(1878)、私学校「惟新社」を設立し、陶画法を教え始め、間もなく、九谷陶器会社に招かれて入社すると、古九谷の顔料の研究にも熱心に取り組みました。直ぐに会社を辞めましたが、制作の傍ら、江沼地方で陶画工となった多くの門下(初代 中村秋塘、谷 秋渓ら)を指導しました。さらに、明治21年(1888)から同28年(1895)まで江沼郡九谷陶器組合の頭取に就き、江沼九谷の発展に尽くす一方で、明治26年(1893)のシカゴ万国博覧会に出品して名声を博しました。そして、翌年に石川県工業学校の教師として招聘され、明治40年まで九谷焼の絵付について教えました。学校を退職してから10年余り、大聖寺で陶画業を自営し、再び数々の優品を制作しました。
 吟秋の作品は、赤絵金彩や金襴手の作品もありますが、九谷五彩手の作品もよく制作しました。明治14年(1881)の第二回内国博覧会に「古九谷風彩画置物」を出品し、同じ博覧会に出品した九谷陶器会社の「古九谷風彩色花瓶」の絵付も担当しました。今回の「江沼九谷の開国」展にも「色絵山水図大平鉢」「色絵山水図八角皿」など九谷五彩手の作品があります。また「温知図録」に掲載されている3点の図案は、九谷五彩手の山水図や草花図です。これらのことから考えると、吟秋の作品は、あくまで、端正かつ優美な独自の画風を追い求めたものであり、伝統美溢れる古九谷風の九谷焼であることがわかります。
 一方、浅井一毫は、宮本屋窯で飯田屋八郎右衛門から赤絵細描の技法を習い、八郎手を美しく精緻に絵付することに励みました。そして、八郎右衛門から「方氏墨譜寫本」を譲り受けていたことから、「墨譜」の群馬図や宝積山図などを画材として活かしました。また若いころに、九谷本窯において永楽和全の下で九谷焼の改良に携わった経験を活かし、一毫の作品には和全から習った京風の洗練さや器形の美しさが加わったといわれます。
 一毫は、明治10年(1877)の第一回内国博覧会に「赤絵金彩瓢形徳利」「赤絵蓋物」を、明治14年(1881)の第二回内国博覧会に「赤絵花瓶」「馬上杯」を、そして明治23年(1890)の第三回内国博覧会に「陶筆建筆洗」を出品しました。また、「温知図録」には、一毫に渡ったとされる3点の図案が掲載されていますが、いずれも赤絵の群馬図や鳳凰図の下絵です。産業見本市的な性格であった内国勧業博覧会に3回連続で出品したことから、八郎手の画風を究めることを忘れずに、信念のように美術工芸の仕事を続けたことが窺えてきます。一毫の作品には、上下左右に配置された細緻な文様や、最も得意であった龍や鳳凰の密画がよく施され、「方氏墨譜」からとった画材を所々にとり入れた作品が多くあります。こうしたことから見えてくるのは、兄・吟秋と同じく、独自の画風である赤絵細描を究め通したということです。こうして、一毫は明治期において最も洗練された九谷赤絵細描の名手ととなったのです。

 江沼九谷を代表した、竹内吟秋、浅井一毫は、美術工芸品としての九谷焼と産業九谷とは異なるものとする、二人の信念があったからこそ独自の画風を完成させたと思います。ですから、江沼九谷は「開国」の波にのみ込まれず、その後、能美九谷や金沢九谷の産業九谷が衰微してしまう中、竹内吟秋、浅井一毫の後に続いた、江沼九谷の多くの陶画工も、二人の信念に導かれるように、九谷焼における伝統美を守り通したように思えてきます。
[T.K]

古九谷にみる“武士の線描” [九谷焼をもっと知る]

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≪古九谷「色絵牡丹蝶文皿」の一部(牡丹)≫

 昨年、九谷焼陶芸家 武腰 潤氏が石川県九谷焼美術館の館長に就任され、館長就任に伴う記念講演が催されましたが、その講演録(NPO法人発行 さろんど九谷 発行の「ふかむらさき33号」に掲載)の中で、館長が古九谷「色絵牡丹蝶文皿」(東京国立博物館所蔵)に惹かれて九谷焼の道に進まれたこと、そして古九谷にみる“武士の線描”を目指したことが書かれていました。
*武腰 潤氏は、初代 武腰泰山(本名 泰之 明治12年(1879)生、昭和21年(1946)歿)の孫に当たり、泰山窯の四代目です。初代 泰山は、九谷庄三の義弟で片腕とまでいわれた 初代 武腰善平の三男で、繊細で巧みな運筆によって、和洋の絵の具を使いわけるなどして表現できないものがなかったとまでいわれ、特に、「田舎山水」と呼ばれた田園風景を描いた作品からは緑の絵の具に深みがあるのを感じます。
一方で、武腰館長の作品は、どれもといってよいほど、呉須による線描と、紫、青、緑などの絵の具に濃淡をつけて、白素地に描かれた翡翠(カワセミ)、鴇(トキ)などがとても鮮烈で印象的です。そして、故 北出不二雄から色釉を学んだことと考え合わせ、紫、青、緑などの絵の具と呉須による独自の賦彩を創り出しているようです。

 武腰館長が述べられたように、古九谷「色絵牡丹蝶文皿」は、紫で塗り込められた牡丹に目を奪われるだけでなく、図案が黒の線描でくっきりと骨描(輪郭線)された、印象的な作品です。径35cmの平鉢の表面一杯に、濃淡をつけて紫の大輪の牡丹、緑と青と黄の葉、黄の蝶が厚く塗られ、繊細に線描された牡丹の花脈が紫の絵の具の下にうっすらと、しかし、しっかりと描かれています。
 絵模様全体が九谷焼独特の黒褐色の呉須で骨描されていますが、ここが古伊万里と違うところです。古伊万里が釉薬の下に酸化コバルトの藍色の呉須で染付され、その呉須が白い素地に染み込んでしまうため、どうしても鮮明にならなかったのと違い、古九谷の黒い呉須が表面を覆ったガラス質の器面に上絵付されるため、線がくっきりとなるのです。その上、古九谷の呉須で描かれた文様や線は、絵の具で上から覆っても、絵の具がガラス質であるので、透けて見え、そのため、絵の具の透明感をさらに引き出し、また上を覆った絵の具によっては本来の黒の色が焦げ茶とか紫に見えるので、絵の具の色と合いまって違った色合いを醸しています。
 ことに、古九谷にみる呉須の線描は、素早い運筆で力強く感じ、あるときは「色絵牡丹蝶文皿」の牡丹の花脈のように細く繊細です。おそらく、武腰館長は、太くもあり細くもある古九谷の線描が、示現流の武士が髪の毛一本でも太刀を速く打ち下ろしたように、この作品の呉須の線描が速い運筆であることに驚嘆され、“武士の線描”と述べたのではないかと思います。

 この“武士の線描”の言葉から思いついたのは、古九谷に見られる図案や文様、構図のとり方、賦彩などに“武士”と切り離せないものがあるということです。あらためて、唐詩画譜を手本にした図案、武士の式楽(儀式用の芸能)であった能装束からの文様などは、武士以外の職人には創り出せなかったものと考えられます。
 このブログの2011-03-25号で、八種画譜の中の五言唐詩画譜「江邨夜帰」によく似た構図をもった古九谷について述べたことがあります。当時の武士は、直参(藩主に直接使える家来)への登用試験を受けるために、「四書五経」(中国の代表的な古典の総称)を学び、漢文を読むことが教養の一部でしたので、藩士が五言唐詩画譜に添えられた唐詩から情景を読み取り、風景の中に文人の姿を置くという風雅ある構図にしたと思われ、普通の職人にできるものでなかったと考えます。
 そして、古九谷には藩士ならではの文様や図案があります。それは能装束に倣ったと見られる文様や図案があるということです。江戸時代に能は武士の式楽となりましたが、特に、加賀藩では藩主自らが能(加賀宝生)をたしなみ、工芸品の製作や修復を手掛ける御用職人に対し、本職のほかに能の謡(うたい)や囃子(はやし)を兼芸として課したため、藩士は能楽を習得することに励みました。能が盛んであったのは大聖寺藩も同じで、工芸品である古九谷の制作に携わった藩士は、演能をたしなみ、よく能装束を見る機会が多かったと思います。
 古九谷の文様には、亀甲文、菱文、流水文、青海波、鳳凰文、七宝繋ぎ、有職文、飛雲模様、丸紋づくし、鱗、紗綾形などがあり、それらは古くから能装束に見られ、また図案には“流水に菊”、“菊に蝶”、“牡丹に蝶”などがあります。古九谷が創作された江戸初期においては、まだ能が貴族や武士などの一部の芸能でしたので、藩士によってこうした文様や図案が古九谷に意匠化されたと思います。

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≪「色絵鴛鴦流水図平鉢」の文様(一部)≫

 つぎに、古九谷「色絵鴛鴦流水図平鉢」(石川県立美術館所蔵)を見ると、五彩で八角に枠取りされた見込の中央に、流水と鴛鴦、岩などが描かれています。周囲には変形した亀甲が見込の八角に合わせて配され、さらに亀甲の中に亀甲小紋、紗綾形(さあやがた)文、七宝文などが呉須ではっきりと線描されています。この作品に見られる文様は、前田育英会、石川県立美術館などが所蔵する能装束に見られるものです。
 また、古九谷「色絵亀甲菊流水図平鉢」(石川県立美術館所蔵)では、見込の亀甲枠の中に“流水に菊”の図案が、その周辺には五彩の絵の具と細い線描で亀甲枠と文様が描かれています。この“流水に菊”はやはり能装束に見られますが、能装束の制作者による創作であったのか、古くからあった“菊水文”(流水に半分ほど隠した菊文 武将 楠木正成の家紋)に由来したのかどうかは不明です。ただ、能演目にある「菊慈童」に素材を求めたのではないかと強く思います。「菊慈童」そのものが中国の菊水伝説であり、我が国でも鎌倉時代の頃からいろいろなものに用いられ、能には天皇や武家に係わる物語である演目「菊慈童」として取り入れられました。これがきっかけとなり、この“流水に菊”が能装束の文様となり、さらに古九谷に用いられたと考えられます。
 “流水に菊”が能演目「菊慈童」の装束に取り入れられたかは不明ですが、能装束に見られる“流水に菊”は、大輪の菊花が浮きつ沈みつ流れて行く様子が装束に織り込まれ、迫力を感じますが、径44.5cmの古九谷の見込に小さく描かれた「菊流水図」は亀甲文に囲まれた中に配されているので、「菊慈童」伝説の言い伝えである延命長寿を願う吉祥文として意匠化されたと考えた方が、“ハレ”の場で用いられた古九谷には相応しいといえます。

 以上のほかに、武家や寺院の建築に見られる金地濃彩の障壁画(狩野派絵画)、欄間彫刻などが古九谷に影響を与えたことは、専門家の鑑識眼のとおりで、金地濃彩の障壁画を鑑賞したうえで古九谷を鑑賞すると、もっと楽しめるのではないかと思っています。
[T.K]

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