So-net無料ブログ作成
前の3件 | -

牡丹の大皿に観る「筆の冴え」 [ギャラリー・トークを聴く]

 2月17日、石川県九谷焼美術館において、開館15周年記念特別企画展『古九谷帰郷 牡丹の大皿に観る 筆の冴え』の開幕に合わせてギャラリートークが行われました。その内容は、同館長武腰潤氏による、古九谷(様式)「色絵牡丹蝶文大皿」(東京国立博物館所蔵)を中心にした、九谷焼作家としての興味深い解説でした。特に、この大皿の絵付けや線描の特異さと、肥前山辺田窯の素地との関連性に触れたことでした。

kokutani-botan.jpg
≪古九谷「色絵牡丹蝶文大皿」(東京国立博物館所蔵)≫

 九谷焼は、古九谷以来、「絵付けが命」と言われてきます。それは古九谷の絵付けには絵心のある絵師がかかわったと考えられ、武腰館長も若い頃日本画や油絵を勉強されていたからこそ、この大皿に描かれた図案がまさに絵画のような表現であることに感動し、その後、古九谷風の色絵磁器の創作に取り組んだと述懐されました。

 古九谷は二次元的に表現されているものもありますが、この大皿は牡丹の花を中央に置いて、上の葉も下の葉も後ろにあるように三次元的に表現され、蝶も赤い線も牡丹のために付け加えられたのであって、あくまで牡丹の花に焦点が置かれていて、とても奥行きのある絵付けであるとの解説がありました。加えて、牡丹の色の塗り方が“色をのせて色を描いている”とも述べ、絵心のある人が絵付けするとこうなるといわれていました。

 そして、この大皿の線描は庄三風のものと違っているといわれました。その線は、美しく繊細に描かれたものではないものの、堂々として絵師が思いのままに描いていると述べられました。この線描についてはこのブログの中で既に取り上げました(2017年1月)が、線描の凄さが感じ取れるといわれます。武腰館長はこの筆さばきを「筆の冴え」と表現されたと思います。この大皿だけでなく、古九谷には唐呉須で細く長く引いた線が描かれているものがあり、その線描から、引き締まった腕節強い手で握った筆を、ぶれることなく、宙を切るように描いた、武芸を極めた絵師の筆運びに感動したのではないかと思います。

 解説を聴いていてふと思い出したのが将棋盤の目を刻む方法のひとつである“太刀盛り”のことでした。太刀盛りが古九谷の線描と直接関連があるとは考えられませんが、江戸時代に幕府によって保護され、武士から一般庶民に拡がっていった将棋の盤の目を刻む方法として“太刀盛り”が受け継がれてきています。(古くは江戸時代の貞亨年代の頃の「職人尽総合カルタ」にのっています)
 線の幅に合わせて刃を丸めた日本刀に温めた漆を付けて盤を斬るようにして漆を盛りつけていきます。刀の反りを利用して刀を刃先のほうから将棋盤に押し付け、刀が離れる時に漆が表面張力により、断面的に丸い連続線が盤の上に引けるのです。こうして盤に漆がしっかりと塗られた、細く、真っ直ぐな線が盛り上がり、長年使っても剥離しないといわれます。武士が関係したか不明ですが、腕節の強い職人が日本刀を握って引いたと想像されます。線の輪郭が鋭利な刃物で切り落としたように明瞭となり、深みある漆の光沢と調和して盤面から生気を感じさせるそうです。

 想像するに、この大皿の線描も絵の具を色絵磁器の上にのせて描かれたので盛り上がっているのではないかと思います。古九谷をはじめ九谷焼の絵付けの特色は絵の具を素地にのせて絵付けする、だからといって、絵の具が剥離を起こさないように素地と絵の具の相性を考えて調合する技術が生まれていたのです。

 さて、武腰館長は、「色絵牡丹蝶文大皿」が“ひょっとしたら、九谷で焼かれたものはないのではないか”、でも、“素地が九谷のものではないとしても、絵付けが九谷のものであるから、あきらかに古九谷である”と述べられました。一瞬、周りから驚きの声が上がりました。加えて、肥前山辺田窯の素地に九谷の絵師が絵付けしたとしても、山辺田窯が1650年頃に閉窯したとなると、肥前から素地を仕入れて九谷で絵付けすることができたのかと疑問を投げかけていました。それは、古九谷が1655年に焼かれ始めたというのが定説であるからで、一歩踏み込んで、古九谷が1655年以前に絵付けがなされていたと考え直さねばならのではないかと述べたのです。

kokutani-botan-kensen.jpg
≪大皿の裏面に引かれた圏線≫

 上の画像は大皿の高台の内側を写したもので、画像からは、山辺田窯の色絵素地だけに見られる圏線の特色が見て取れます。高台内には、中心に近いところに二重圏線があり、高台の内側のすぐ下にもう一本の圏線が引かれています。確かに、定説に従えば、古九谷が焼かれ始めた時期と山辺田窯の閉窯の時期と間にずれがありますが、有田町教育委員会発刊の調査資料『山辺田遺跡』には、山辺田窯が閉窯したのが“1650年代の後半”と記述されていることから、加賀藩(大聖寺藩)によって山辺田窯が閉窯する直前に仕入れていたことも考えられます。その上、山辺田窯の周辺にあった丸尾窯でも山辺田窯の廃窯後に大皿の素地を焼いていたことがわかっています。こうしてみると、古九谷と肥前産の素地の関係についてはさらなる調査研究が必要ではないかと考えています。
[T.K]

山辺田窯跡について ①窯跡と関連史跡の見聞 [美術館・ボランティアを訪ねる]

 伊万里市在住の有田焼作家であり伝統工芸士のY氏が昨年東京の青山スクウェアで展示会を開いたとき、Y氏が山辺田窯跡の調査研究にかかわっていることがわかり、有田町でいろいろ教えていただくために、有田町などを訪問しました。
 このブログで「九谷磁器窯跡と山辺田遺跡」(平成25年9月にアップ)で両古窯跡で見つかった、絵付け窯を取り上げたことがありましたので、今回の訪問によって、有田焼の初期色絵磁器(古九谷様式と呼んでいる)において先進的で重要な役割を果たした山辺田窯跡について理解を深めることができました。

 Y氏からは、関連するいくつかの窯跡と資料館などを案内していただき、それぞれの場所で解説していたきました。案内された場所は、肥前地方の窯業が陶器から磁器へ移行した頃の小溝窯跡(有田町の陶器と磁器を併産した窯)から始まり、山辺田窯跡とその遺跡(登り窯と工房跡)、佐賀県立九州陶磁文化館、有田焼参考館、岸岳古窯跡(古唐津の窯跡)などです。

 まず、Y氏は移動する車の中で予備知識をいろいろ与えてくれました。知っていたことも含め、よく理解できました。
・1590年代に平戸藩の松浦氏によって朝鮮半島の登り窯の技術が移入されたこと
・肥前の国に散在した登り窯で焼かれたやきものは古唐津と呼ばれ、それには施釉はもちろんのこと、筆による施文がなされたこと
・改良された大規模な登り窯では古唐津が大量に生産され、日本の各地に流通したこと(西日本ではやきもののことを“からつもの”と呼ぶのは唐津港から肥前地方の陶器が船積みされたためといわれています)
・1610年ころ、この登り窯の技術が今の伊万里市、有田町へ広がり、さらに武雄市まで広まって、かなりの数にのぼったこと
・有田では製土から焼成までを集団の中で分業によっておこなわれ、このことが後の磁器生産にとって重要になったこと
・有田では登り窯が丘陵斜面に築かれ、これまで50数か所で発見され、そのうち40カ所以上の調査が終わっていますが、一つの窯場に複数の窯が築かれていた例もあり、大体が陶器と磁器を併産していたこと
・さらに、有田では、近くの長崎に入ってきた中国磁器を目の当たりにしたことで、その技術を取り入れて陶器から磁器へ移ったこと

 まず案内された小溝窯跡は、有田町西部の丘にあって、陶器と磁器を併産した、初期の窯があったといわれるところですが、緩やかな斜面は道路造成のため削り取られてしまい、跡形もない状態でした。発掘しても手掛かりになるようなものはほとんど出土せず、ですから、その周辺には目印になるようなものも、囲いなども全くなく、道路と斜面だけでした。

nobori-kamaato.jpg
≪山辺田窯跡のうちの登り窯跡≫

shurakuato.jpg
≪山辺田窯跡近くの工房跡≫

 次に案内されたところが山辺田窯跡とその遺跡(工房と集落のあったところ)でした。ここは有田町の西側に位置し、いわゆる外山(そとやま)と呼ばれた地域です。数基の登り窯と併せて工房と集落の跡が見つかっています。
 磁器の登り窯周辺からは素地が出土し、そこからほど近い平地に工房の集落の跡が発掘されました。ただ、これまで有田町で見つかった工房跡は4個所だけで、その一つが25年に公表された、山辺田遺跡の絵付け窯です。赤絵窯跡(肥前地方でいう絵付け窯)の周辺からは、素地を問わず、色絵の磁器片が出土しました。有田町全体で出土している古九谷様式の色絵素地の総数は千点をはるかに超え、色絵磁器片も百点以上に達していますが、中でも、山辺田窯跡や楠木谷窯跡に特に多く、泉山口屋番所遺跡でも比較的多く出土しているとのことです。特に、山辺田遺跡では70点ほどの色絵磁器片が出土し、それも大皿のものが多く、突山しているそうです。

 そうした山辺田窯跡からの出土物を見るため、有田町歴史民俗資料館の一部である有田焼参考館に向かいました。ここは有田焼の歴史研究や作陶などを理解する上で参考となる、陶磁片を展示する資料館です。発掘の規模も大きくなり、有田町が保管する膨大な発掘調査資料の中から、約40遺跡から出土した、1000点ほどの陶片が展示されていましたが、残念ながら、平成26,27年の調査によって山辺田窯遺跡からの出土片は未だ展示されていなかったのは残念でした。ただ、資料館で購入した図録『山辺田遺跡』(2017年発刊 有田町教育委員会)を見ると、しっかりとした筆づかいで文様が描かれた染付片、色絵磁器片の画像が整理されて掲載され、古九谷様式の初期色絵磁器を調べる上で参考となると思われます。

 夕方になり暗くなり始めましたが、有田町から北方に位置する唐津市の岸岳古窯跡に向かいました。そこは、岸岳山麓に点在する古窯群の一つで、1590~1600年代に極めて短期間だけ操業していた、唐津焼を初めて焼成した古窯跡でした。この地域にある古窯群は岸岳古窯群と呼ばれ、登り窯の構造および出土遺物の形態や歴史的背景から重要視され、国指定肥前陶器窯跡に指定さています。古窯群の中には全長が約35mで、焼成室が14室あったと推定される窯跡もあるということです。この登り窯の技術は朝鮮半島から伝わり、改良されながら肥前地方に広がって行き、磁器の登り窯(本窯)に転用されたのです。

yanbeta-kama.jpg
<色絵松竹岩文大皿>
(佐賀県立九州陶磁文化館パンフレットから)

 また、その日の午後1時過ぎから佐賀県立九州陶磁文化館で行われた、29年度新蔵品に関するギャラリートークを聴きました。そこで、1点だけですが、山辺田窯で制作されたといわれる古九谷様式の色絵磁器「色絵松竹岩文大皿」を見ることができました。赤色がほとんどなく、真っ白な綺麗な器面に濃厚な絵具で松、竹、岩がくっきりと描かれた大皿です。いわゆる古九谷の五彩手とは少し違った印象を受けました。

 こうして、遺跡の見学とY氏の解説によって、やきもの戦争とも呼ばれた、朝鮮半島への出兵によって、その戦果として得られた一つであるやきものの技術によって、肥前地方の窯業がいかに急速に拡大し、さらに磁器が生産されるまで至ったその流れと、短期間のうちに色絵磁器が幾つかの窯で生産されたことがわかりました。
 そして、肥前の有田焼の初期色絵磁器の生産から数十年遅れて、同じように加賀地方で古九谷の生産が始まったのです。今回の訪問では、この二つの地域はどのような関連性があるのか、また有田焼からどのような影響があったのかを調べる上で重要な手がかり(何冊かの資料も含め)を得たように思います。
*後日、山辺田窯跡と関連遺跡の概況をまとめた上で、九谷古窯と比較しながら、古九谷との関連性、有田焼の初期色絵磁器からの影響などをまとめる考えです。
[T.K]

魯山人と初代須田菁華 展 [九谷焼をもっと知る]

初代菁華と魯山人展.jpg
 「魯山人と初代 須田菁華 展」が石川県九谷焼美術館と山代温泉の魯山人寓居跡 いろは草庵において同時開催されています(平成30年2月4日まで)。平成22年にも同様の企画展がありました。石川県九谷焼美術館において二人の作品を見ながら、昭和30年、金沢美術俱楽部での「魯山人展」を前に講演したときの「私ハ先代菁華に教へられた」と書かれた演題の軸(須田菁華蔵)が何を意味するのか考えてみました。

 展示されている初代 菁華の作品は、呉須赤絵牡丹文向付、古九谷写色絵草花文隅入四方皿、祥瑞写胴締水指、染付八仙人図鉢、色絵染付渓流図大皿、染付龍文花瓶、色絵人物図古九谷写平鉢、金襴手牡丹文蓋付向付、乾山写竜田川文鉢、赤絵牡丹文香合、萬歴赤絵龍文水指などです。食器でありながら、明代の古染付、交趾、色絵祥瑞、吸坂手、呉須赤絵、染付、万暦赤絵、古九谷、古伊万里などの古き名器に倣い、それを精密に表現した作品で、銘や箱書きがなかったら見間違えるような作品が多くあります。そして、初代 菁華の染付の作品は、魯山人にもありますが、「菁華」の名の由来でもある中国の“青花”に比肩する、名工の名に恥じないもので、精緻に描かれていて“精華”そのものです。
 魯山人の作品は、織部扇面鉢、椿文鉢、蟹絵鉢、絵瀬戸瓜形花入、色絵葡萄文扇形鉢、絵志野深鉢、色絵福字隅入角皿、織部兜鉢、染付赤絵土瓶、有平文湯呑、赤絵金襴手向付、染付吹墨木瓜形鉢、乾山風松竹梅図手付鉢、銀彩酒杯、赤呉須酒杯、志野酒杯、備前徳利、黄瀬戸釉紅葉鉢、赤玉向付、銀刷毛目春秋楓葉文中皿などです。形といい様式といい多彩で個性に富む名品ばかりで、しかも一作一作が特異なデザインです。そして平面でも曲面でもその形に合った線描や筆運びが見事です。こうした表現は、魯山人が『魯山人陶説』(北大路魯山人著、平野雅章編)の中で唱えているように、あいまいな伝統観によるものではなく、文人趣味とも隔ったもので、魯山人の個性から生み出されたものといえます。ですから、魯山人は、当時、陶芸の世界では特異な存在であったことがわかります。
 こうした二人の作品からは、様式といい器の形といい共通するところはなく、むしろ器から滲み出る“用の美”とか“食器は料理のきもの”といった、もてなしのための食器の制作に取り組んだ二人の姿が見えてきます。では、二人がどのような思いを込めて食器を制作したのかを探るため、二人の陶歴と陶磁器との出会いを見てみます。

 初代 菁華は文久2年(1862)、金沢に生まれ、須田与三郎といいました。明治13年(1880)、18歳で石川県勧業試験場(元加賀藩の御細工人の救済と工芸技術の開発保全を目的とした支援場所)を卒業しました。その後3年間、京都に出て茶陶について研究しました。その合間に趣味であった茶席にも足しげく通うなか、もてなしのかぎりを尽くす懐石料理の器に関心を広げたといわれます。京都から戻った初代 菁華は、明治16年(1883)、竹内吟秋、浅井一毫、大蔵寿楽らが辞した後の九谷陶器会社に招かれ、画工部長に就きました。しかし、明治24年(1891)、29歳のとき、独立して、自宅に錦窯を築き陶画業を始めました。その後、明治39年、自家専用の登窯を築き、制作を続けました。
 九谷陶器会社では主に呉須、古染付、祥瑞などを制作し、独立後、当初は懐石料理の食器を中心に、向付、茶碗、鉢、水指などを制作しました。自家専用の素地窯を築いてからは、古陶磁器の研究を深め、染付、祥瑞、安南、伊賀、古赤絵、萬暦、古九谷、古伊万里、鍋島などに倣った作品を制作しました。これらは観賞用としての器というだけでなく「用の美」を感じさせるものです。ですから、洗練された懐石用具として山代温泉の老舗旅館、金沢の料亭などで使われました。また極めて優れた作品でしたので、初代 菁華は明治陶界の名工と称されるようになりました。。

 北大路魯山人は明治16年(1883)、京都に生まれ、北大路房次郎といいました。若い頃は陶磁器に関与することもなく、書、篆刻(木や石などに印や看板を彫ること)、絵画など幅広い分野にわたって独学し、看板、版下書き、習字塾などで生計を立てていましたが、次第に、裕福な商人の求めに応じて篆刻などを制作しました。大正4年(1915)、32歳のとき、福田大観と名乗って看板を彫ることなどを仕事とし食客生活をしていたとき、初代 菁華に出会いました。初代 菁華が53歳のときでした。
 魯山人は長浜や京都などを転々としたあと、福井県鯖江の豪商 窪田朴了のところで金沢の細野燕台(漢学者、書や画に長けた文人)に会い、燕台の計らいから細野家で開かれた煎茶会において燕台の三人の仲間、山代温泉「吉野屋」旅館の主人 吉野治郎、初代 菁華、金沢の料亭「山の尾」の主人 太田多吉に引き合わされました。これが縁で、魯山人は吉野から自らの“寓居”を仕事部屋として提供され、「吉野屋」「須田菁華窯」などの看板を彫ることになりました。このとき、魯山人は細野家の食卓に並ぶ食器が燕台自らによって成型し初代 菁華の窯で焼いてもらったことを知り、食器というものがいかに料理を引き立たせるかを実感しました。自らも料理をする傍ら、料理を引き立たせる食器がどういうものかを学ぶ機会を得たといいます。ですから、魯山人は自分もいつか菁華窯で自分の食器を焼いてみたくなりました。このときが魯山人が食器を「料理のきもの」と見立てる原点となったのであろうと考えます。
 念願がかない、魯山人が実際に作品を焼き終えたとき、それを見た初代 菁華は魯山人の絵付のセンス、大胆な筆運びに驚き、魯山人の才能を見抜いたといわれます。このときから魯山人も作陶の魅力にとり憑かれ、看板を彫るかたわら、暇を見ては菁華窯に出向いて、釉薬の調合、窯の焚き方など作陶の基礎を初代 菁華より学びました。山代温泉で過ごした半年の間に陶芸への開眼をしたといわれます。

 ところで、初代 菁華が京都において関心をもった、もてなしのかぎりを尽くす懐石料理は、一般に、茶の湯において食事(懐石と呼ばれる)を伴った正式な客のもてなし方です。茶事の主旨をあらわすべき道具(食器も含め)のとり合わせに心が配られ、料理の献立が吟味されるといわれます。茶、花、菓子、御香と合わせて、客を心からもてなすため、吟味に吟味を重ね選りすぐられた、向付、蓋向(ふたむこう)、鉢、皿などが重要な役割をはたします。特に、向付は懐石膳の飯・汁椀の向うに付けるところからそう呼称され、一人前ずつ盛り込む小ぶりの器の総称です。ですから、中に入れる料理は、刺し身に限らず、浸し物や酢の物などで、はじめに登場する晴れがましい器です。

 懐石料理の食器を数多く制作した初代 菁華は魯山人から「私ハ先代菁華に教へられた」と慕われました。魯山人は「食器は料理のきもの」という信念のもといろいろな食器を制作しました。その度に、収集した2000余の古陶磁器を鑑賞しては料理の“きもの”である食器を次々に創作したといわれます。多くの食器は魯山人のかかわった食事処の『美食倶楽部』『花の茶屋』『星岡茶寮』で使うためで、菁華窯で数回焼いてもらい、他にも京都伏見の窯で制作しました。山中温泉の矢口永寿窯で乾山風扇面鉢や三彩の皿、大聖寺の中村秋塘窯で金欄手の鉢、また梅山窯で楽焼、宮永東山窯で青磁の壺や皿、瀬戸の加藤五助窯で織部や志野、黄瀬戸などを制作しました。それで尽きることなく、魯山人は「自由に制作し焼成できる自らの窯を持ちたい」との考えに至り、遂に自らの窯をも築いたのです。それが登窯の『星岡窯』でした。(京風登窯で長さは18m、幅8.5m)

 こうして見てくると、初代 菁華と魯山人とはどこか似たところの多い二人だと思います。初代 菁華は自家専用の登窯をもち、自由に制作したやきものは、古き名品の様式の鑑賞から生み出した創作でした。そして魯山人も初代 菁華に倣い自家用の登窯を築きました。初代 菁華が唱えたかどうか知りませんが、魯山人は『魯山人陶説』の中で「胎土の仕事から、最後の焼上げを了えて完器となるまでの仕事」からこそ個人作家の権威が具わる創作が生み出されると唱えています。魯山人は初代 菁華から大きく影響を受け、「私ハ先代菁華に教へられた」のです。
[T.K]
前の3件 | -